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やりたいこともやらなければいけないことも解っていても心と体がそこに向かわなかったり、追いつけなかったりしている。

その間、何をしているかというと常にそこに向かう為の気分を待っている訳である。

その待ち時間に生活費を稼いだり、本を読んでみたり、映画や動画を観たり、Facebookで友達の動向を気にしてみたり、散歩してみたり、カフェに行ってみたり、瞑想の真似事をしてみたり、哲学的な思考に耽ってみたり、政治にあーだこーだ言ってみたくなったり、日曜日に訪れるエホバの王国の方の話に耳を傾けたり、木を切ったり、雑草を抜いたり、草木に水をやったり、性欲の赴くままに慰めてみたり、人間ドックへ行ってみたり、急に思い立ち料理してみたり、掃除してみたり、障子を張り替えてみたり、ただただビールを飲んでダラダラしてみたり、とにかく寝たり、ひたすら寝たり、異様に寝たり、そんな自分を不安視してみたりしている。

40歳になったらこんなに眠れるものかというくらい僕はよく眠っている。トキロックも僕に引けを取らないくらい眠っている。このペースで行くと還暦を迎える頃にはコアラに引けをとらいないくらい眠れる気がしているくらいである。

余談中の余談ではあるが、子供の頃は寝るのが勿体無いと思っていた。小学校高学年の頃、門限的なものはあったが、朝早く出て行く事には両親共にお咎めなしである事に気づいた僕は朝練と称して4時くらいから友達を集めて球遊びをしていた時期があった。もちろん、最初は面白がって集まってくれたが徐々にもう少し寝たいという全うな理由で徐々に集まる人数が減り、最終的に一人でボールを蹴る事に虚しさを覚え終了したが眠るくらいなら遊んでいたかった。それが今や遊びたくてもとにかくすぐ疲れて眠ってしまう。せっかく夜遊びしても咎められない年頃になったのに、いやはやなんとも皮肉なものである。

それはさて置き「待っていても自然になんかやってこないよ」という囁きが聞こえてこなくもないが、待てば暮らせば時折はやって来るもので今週末、扇町パラダイスではその時折を何とかかんとか組み合わせた一つのカタチを楽しんで貰えたらなと思っています。台風が少し心配なので、皆さん自然には逆らわず、命大事にでお願いします。

待てば暮らせば、色々と崩れてしまっていたものたちも新しい要素を含みながら修復されていくもんだなと実感しています。今は歌いたいことより話したいことの方が多くもあり、当日、気づけばトークショーになっていたという事もあり得なくはないですが、そうなったらそうなったでそれもmothercoatということでご理解ください。


今や、眠れる夜と眠り続ける昼多めですが、、、。

この曲もやろうと思ってます。


gigadylan









昨日のブログ書き終えて自分にとってのエアコンとは何なのかという全く今やるべきでない考察を

始めた挙句、また書き始めてしまい "これ何の時間 ? " と首を傾げている。


1981年に購入した我が家のTOYOTAカローラにはエアコンが着いていなかった。窓を開けたら大丈夫だと両親は思っていたし、実際、窓を開けて走っていれば命の危険を感じない我慢出来る暑さであったのだろう。 

1984年か1985年の夏、ギガ家はオープンしたての姫路セントラルパークへ車を走らせていた。動機については定かではないが恐らく誰かから割引チケット的なものを貰ったことで火がつき、マイカーで巡れるなんて5歳の僕と3歳の妹を連れて王子動物園を回るよりも楽であるし、ワクワク感も大きいだろうと思ったのであろう。僕もうる覚えの極みではあるが、サファリパークという響きが動物園より圧倒的に自分のワクワクドキドキ感を引き出していたと記憶している。そして世界最速の動物チーターの生走りが見れるのではないかという妄想がより僕の子供心の純度を高めていた事は容易に想像出来る。  姫路セントラルパークに着き迷う事なくサファリエリアのゲートに向かう。そしてゲートで音声ガイド機器を渡された後、宣告されて気づく、少し考えれば分かることではあったが、当然のことながら窓を開けてはいけなかった。ずらりと並ぶ車の列。もはや「すみません、クーラーがないのでやっぱりやめます。」と言える訳もなく 入場し数分後、命の危険を感じた僕らはライオンの手が入らないだろう程度窓を開けたが、時速10Kmにも満たない車の中に風が入る訳もなく、車内は音質の悪い音声案内と家族4人の「あかん、あかん これはあかん。早よここ出な死んでまう」という声が入り乱れ、もはやチーターどころではなくなっていた。その後、遊園地に行った記憶はすっかりなく、とにかく帰り道、両親が、この車に早急にクーラーを付けることで意気投合し、後日我が家のTOYOTAカローラにクーラーがついた事だけは鮮明に覚えている。そして当時新品のカーエアコンは異様に臭くて(ただ嗅いだことない匂いに僕の嗅覚が戸惑っていただけかもしれないが)、僕が匂いに酔って気持ち悪くなり、結局窓を開けていた記憶もある。  

実家の居間に一台だけクーラーがあったが、僕が住んでいた18年間でつけた事は数えるほどしかなかった。”電気代が勿体無い、風吹いたら涼しいやろ、クーラーの風は身体に悪い"が我が家の基本的な教えであった。

"命の危険を感じるまで使わないもの"

小学低学年くらいまでに知らず知らず刷り込まれた観念は意識的に取り除いていかないとなかなか

消えないものである。

良い思い出と今良かれと思ってする事は切り離して考えなければ途方に暮れる物事が増えるばかり。


今の子供達に未来を託すに当たってもっとも大事な事は昭和の観念を観念するということに尽きると

僕は切実に思っている。この話は長く面倒になりそうなので、今はやめておこう。

そんなことより、ライブに向けて色々とやり始めて散らかった破片を何とかくっつけないとなのですが、なかなかパワーが出ず困った、困った。



gigadylan

長い梅雨が明け一気に真夏がやってきた。

バンドの活動が盛んだった頃は居住空間にクーラーがなくても全然大丈夫だと思っていたが、単純にツアーに行ってるか、バイトしてるかであまり家で過ごすということがなかっただけかもしれないし、「僕、エアコン苦手だから」と言ってみたかっただけかもしれない。

時は流れ意識も感覚も変化があり総合的に考えても今年は暑くないとは言い難い。

地域放送で、一日中エアコンをつけて過ごして下さいと呼びかけている程に。


8月に入りトキロックの「暑い」という発言が耳につくようになり、言葉の反復により脳により暑いという観念を擦り込ませる恐れがあった為、家での「暑い」という発言は1日5回までとする言論の不自由に取り組むことにした。かと言って6回言ったところで互いに選りすぐりの罵声を浴びせることくらいしか罰則めいたことはないのだが、、、。程なくして家の外に暑いと言いに行く裏技を編み出されたので、僕も対抗措置としていざとなったらノルウェイ語で「varm」と言う技をこっそり温めていた。

きっとこれを読まれた方は速やかにエアコンを取り付けなさいと思われたかもしれない。その通りであるし、その通りに実のところしてある中での猛暑へのアプローチを色々と行なっている。

遡ること半月程前にトキロックと話し合った(ほぼ僕による説得に近かったが) 結果、エアコンを購入する意思を固めていた。僕らにしては高価な買い物であった為、ポイントが5倍になる8月5日を待ってネットで買った方が良いであろうと欲に塗れた選択をした結果、当然ながら夏が先に来て冷気を待つカタチとなった。購入から数日後、購入先からお盆明けでもいいですか?という電話があり、業者さんのこの繁忙期の大変さを理解はしてはいるのだが、「すみません嫁が暑くて随分と汗をかいていまして」と縋るようなトーンで普通の事を言ってなんとか15日に取り付けて貰えることとなった。

そう言った訳で、指折り数え待っている。

快適な室温を得る為に、不快な外気温を更に上昇させる可能性を秘めた人間の欲望の産物を。(実際のところは人は人の観点でしか測れないから地球に及している本当の影響はわからないが)

そう考えるとゾッとして数分は寒気を駆使して凌げる。温暖化のことを少し考えるだけでもちよっとしたエコだなと思いつつも夏の間、ゾッとし続けることは幸福ホルモンの分泌に差し支えがあるので

素直にダイキンさんが書いている事を7割信じて欲望に身を任せ進んで行くのが人間の自然な生き方だと現時点では思いながら、とにかく今は冷気を待っている。



私の本当が知りたくなってしまった。
何もかもわからなくなってしまって、
生きる意味を求め始めてしまったんだ。
まるで世界が本当にそうであるかのように、
本当にそうでなければいけないような風を
縋るように吹かせて。

間違いを(と)認めれるほど、誰もは強くはなくて、
攻めたて安心するのは 誰もが弱さを隠したいから。

私の安心は誰かの不安となることを
私の苦しみが誰かの癒しとなることを
私は知っているから、もしも平和を望むなら
あなたも私も満たされないままに。

もしかすると、誰もが得体の知れない怖さに
もしかすると、誰もが得体の知れない不安に
人が持ち得たはずのやさしさを
人が持ち得たはずの強さを
夢の中に追いやって。

変化を求め過ぎる前に、気づいてないやさしさに
気づける強さを、私は欲しい。

かつて、mothercoatが出演させてもらったイベントでソールドアウトしたものは数える程しかなく、いつも直前でもチケットのお取り置きが出来たのですが、、、

今回、前方椅子席20席、後方段差をつけてのスタンディングになるそうで、55枚でソールドアウトとなります。 またご一緒するyohiacoさんもNeeUさんも人気のある方々なので、もしかすると早めに売り切れてしまう可能性も十分にありますので、お早めのご予約をオススメしますというか、お願いします!

今しか出来ないmothercoatのカタチをどうかこの機会に観に来て欲しいと思っています。

本日15日の22時からparadice.ticket@gmail.com にて受付開始です。

チケット予約時は ・バンド名・氏名・連絡先を明記の上ご予約お願いします。

 ■お一人様1枚のご予約でお願いします。

 ■先着順で整理番号を返信メールにて発行いたします。

 ■3日以内に返信メールをお送りしますので、ご連絡がない場合はお問い合わせ下さい。

時々、我が家に顔を出す猫がいた。トキロックは当初反対していたが、僕はせっかく立ち寄って来てくれてるのだからと、玄関にほんの少しのキャットフードを置く事にした。

来た時に名前がないとあれだなとオスかメスかも確認もせず、その猫の存在が僕らの生活に挟まっているようで心地良かったことから"栞"と名付けた。

栞の姿を見れることはあまり多くないが、餌がなくなっていることで今日も来たんだなと来訪を確認出来た。そしてそれが小さな日々の楽しみとなった。仕事帰りに「今日、もう栞来た?」とトキロックにLINEするくらいに。来てない時は、夜中の2時くらいまで栞が見える部屋で待ってしまうくらいに。

栞は警戒心が強く、こっちが見つめたり、手招きするとプイッと背を向けてどこかに行ってしまう。

出来る事ならいつの日か、少しばかり触れてみたいと思ってしまっている。その僕の強欲を嗅ぎ取ったのか、ここのところ僕の居ない時にしか顔を出さなくなったような気がする。その事を考えると異様に寂しい気持ちになったりしている。久々のこの気持ちはなんだ? もしや栞に恋心を抱いてしまっているのか?猫に恋している40歳の男を人々はどんな風に思うだろうか。もしも栞の同意のもと触れ合うことが出来たら、これは不倫という事になるのだろうか?トキロックも栞のことを懇意にしているが、恋してるという枠組みになった場合、栞に向かって「この泥棒猫め!!」と怒鳴り帰したりするのだろうか? 

そんなこと考えながら、今も栞を待っている。


gigadylan





自覚出来る程の疲れを我が身に感じていた。浸かるべきものに浸からなければいけないと思いつつも浸かれず仕舞いの日々が続いていた。来たるべく週末、然るべき場所へ車を走らせ浸かるべきもの浸かっていた。浸かっている自分の周りの岩場を浸かる気配のない推定7.8歳の全裸の少年が細心の注意を払いながらぐるぐると割と広めの露天の岩場を伝い歩いていた(場所によっては四つん這いになったり)。僕はその少年の男性器と玉袋があまりにも可愛く綺麗なのでしばし見とれていた。しばらくして父親らしき方がやってきて、何の躊躇もなくさくっと浸かった。そして少年は父親に「今、絶対に濡れないゲームをしているんだ、すごく楽しいからずっとやっていたい。」と告げた。

父親は何一つ咎める事なく、笑顔で自分が浸かるべき時間浸かり終えると、一滴も湯に触れる事なくゲームをクリアした少年を称えることもなく共に健やかな顔で露天を後にしていった。

その光景は僕の疲れを取るには十二分な光景であった。

僕は使った事ないテレパシーを使ってその少年に「You are the winner here!」と伝えた。


常識とは何か?を考えてきた。今もなお考えている。

自分は常識に囚われたくないと思っているようだ。裏を返せば多種多様な常識に囚われている身であるということでもある。また囚われないということと非常識を推奨するということも全然違う。

その行いに置いて本人に常識、非常識の認識がない、もしくは瞬間的に吹き飛んでしまっている状態で囚われている者から見たら非常識に感じるが致死に至る害のない行いに対しては咎めることなど何もないと強く思っている。なぜなら常識は非常識を咎める為のツールではなく、多くの人が多くの場合、そうであれれば安心出来たり、無駄に感情を左右されない為の良くも悪くも安らぎの共通認識であるだけなのだから。

いつの時代も咎めたがり屋達の常識が風潮として蔓延し、謝るべきことでもなかった事に謝罪しなければなくなったり、反省しないといけないという僕からすれば非常識を押し付けられたりしているのをニュースや街中で見るたびに、人々の心の豊かさを削り取っていっているように感じてしまうのは僕だけだろうか。


今日もジメジメ。洗濯物の乾き具合以外、特に気に触ることなし。

ライブに向けて、さあどうしようか? まだ定まらず。

15年ぶり?に歌ってみた。「安住の地」


gigadylan

3ヶ月ぶりにログインしている。書くことがなかった訳ではないのだが、他の事に時間を費やしている内におざなりになってしまった。時間がなかった訳ではないが安定した不安定に慣れてしまってた僕は"踏み出しては休み、踏み出そうとしては出せずに休み"を繰り返していた。そうする(できた)中で崩れていた日常がおぼろげながら象られ、灰色だった日々にささやかな彩りが見られるようになった。これで良いのだとその日常に感謝しつつも、それだけでは満たされない我欲が時折顔を覗かせたりもしていた。


5月の半ばにmothercoatのスタッフであるtsumacoから近未来の話を持ち掛けられた。瞬間的に今はまだ無理だ、逃げたい。と明確に思ったが、tsumacoの明確な想いと念が僕の逃げ腰を絶妙に揉みほぐし逃げ場を失った。逃げ場を失った割にその時はアルコールを摂取していたからか心地良くもあり、やってやろうじゃないかと妄想を膨ませた。ソロでのお誘いであったがトキロックにmothercoatでやりたいんだけどと恐る恐る聞いたら「やろうか」と言った。mothercoatで出させて欲しいとtsumacoに伝えたらとても喜んでくれた。

妄想がある程度の膨らみに達した辺りから現実的な要素が妄想を萎ませ徐々に緊張に変わり不安定な今の僕らに何が出来るか、また数ヶ月で何が出来そうかを考えるとより鼓動が早く大きく波打った。

そして明確に思った、弱音を吐きたい出来れば強気にノリノリで無邪気に踊りながら

引っ張り出してくれたtsumacoには感謝しかない。

とにかく僕らは9月7日に大阪でライブをする事になった。

僕らの新鮮な弱音に期待し駆けつけてくれたら何よりです。

イベントタイトルの『Núna』というのはアイスランド語で『今』という意味で、tumacoが思い入れのある3組のそれぞれの今を表現して欲しい、お客さんと交わり重なる今を感じて欲しいという気持ちでつけたそうです。

偽りのない今を表現するのは割と得意な方だと自負しています。


tsumaco presents

『Núna』
2019年9月7日(土)

大阪 扇町para-dice 

■open/start 17:30/18:00(¥3500+1D) 

■act NeeU / mothercoat / more 1band★7/14(日)20:00〜 1バンド追加発表 

■ チケット予約  paradice.ticket@gmail.com にて、
2019年7月15日 22時〜受付開始!
(先着順で整理番号をメールにて発行)

ジュン(2009年から2017年までmothercoatに在籍したドラマー)から渋沢栄一公(以下"公"という)が一万円紙幣になるというニュースを聞きつけバンドのLINEで祝辞を送ってきた。絡みづらいシニカルジョークを交え返してみたところ、恐らく面倒に思えたのだろう途絶えた。ここは素直にThank you, I'm proud of it.と返すべきだったのだろう。仕事帰りの電車で氷結を飲んでいたので仕方ない。

それはともかく以前近所の渋沢栄一記念館にある何かで、その昔千円札の候補になったことがあったが髭がなかったせいでオーラに欠け伊東博文に敗れた。というような記事を見た記憶があったので時を経てやはりそうなるべく人はなるもんなんだなと、芸術に置いても同じような現象は多々起こっており、作品や功績が時を経て再認識されるのは人の一生を永遠と結びつける架け橋のようで素敵なことだなと思ってみたもののそう言いたいだけかもしれない。

たまたま条件に合い移り住んだこの家の近くに公の生家があり記念館があった。いつぞや現代史で登場したであろう公のことは全く覚えていなかったが、移り住んだことで知り、少しばかり興味を抱き、うっすらと親近感を覚えた。ただそれだけのこと。ただそれだけのことであってもなんだかとても嬉しく、ここの住んでいることを誇りに思えたりする自分の脳の構造に驚きながらも感謝している。

そんな小さな盛り上がりの中、今朝、目覚めると桜に雪が積もるという祝いなのか嫌がらせなのか判

別に困る景色が広がっていた。珍しいことに触れることは嫌いではない性格上、これは雪桜と公の像を一緒に写真に収めておくべきだと青淵公園に、そして公の像のところまで行くと驚くべき光景が。普段ほとんど人などいない公の周りに人だかりができていた。そのことの方が珍しく思えその光景も含め写真に収めたかったが、昨今のプライバシー事情を加味すると気温に比例してモチベーションも下がり公に背中を向け雪桜をせっかくだからという記念に何枚か収めた。



今、読んでる小説でアルマジロ(以下"マジロ")は仰向けで寝るということ知った。すぐに動画で確認する。極めて無防備に眠るマジロの画面を目の当たりにして、仰向けで眠れなくなった自分は甲羅もないのにいったい何を防ごうとしてるのだろうともの思いに耽った。そんな季節外れの雪の日の午後であった。


gigadylan





天候と週末がハイタッチ。平成最後の桜がガッツボーズ。桜の花びらと共に乱舞する人、人、人。

これほどまでにチャラダサい表現を出来てしまうほど素晴らしいひと時に今日は触れることが出来た。

朝食を食べ終えた時点で昼に無性にケバブが食べたかった。催されていたさくら祭りの会場にいくつか出店があるとトキロックから聞いていた。が、ケバブ屋はなかった。が、桜は咲いていた。

深谷駅前の会場周辺では献血へのご協力の呼び掛けと明日に控えた埼玉県議会選挙演説の為訪れた共産党の立候補者の演説と高崎線遅延のアナウンスが入り乱れる中、子供達がダンボールで作った力士を大きなベニヤ板の土俵に縦横無尽に並べ、戦略もなければ勝利するコツも誰一人見出せないままひたむきにベニヤを叩き続けるというカオス相撲に花を咲かせていた。

僕らはそれを横目にサクラ色したロゼの甘酒(色以外どうロゼなのかはわからなかった)を飲みながら会場である神社でお参りした後、川沿いを桜に沿って散歩することにした。

もちろん木々のコンディションの違いによる咲き乱れ方の違いはあれど僕らを満足させることは今年の桜たちにとっては花びらの上で軽く躍らせるくらい容易すいことであった。


しかしながら視覚の満足だけでは腹を満たすことは出来なかったので、ケバブの代わりが必要であった。気がつけば時は多くの飲食店がランチタイムから休憩時間もしくはカフェタイムへと切り変わる

時間帯に入っていた。僕はモスバーガーか、バーガーキングを代替案として提案したが、トキロックは首を縦に振らなかった。食事に置いての明確なプランを失った時、トキロックと僕で数年がかりで編み出したとりあえずスーパーの弁当コーナーに行き値引きシールに導かれた上で明確に食べたくないと思わないものをチョイスするというプランを発動させることにした。そしてそれを持って今一度桜のたもとで食べるのは決して妥協ではなく、名案であるとさえ思えたのでコープさんに車を走らせた。そして僕らはトキロックチョイスのウニいくら巻4巻と僕チョイスのカニクリームコロッケ、ハンバーグ、オムライスのコンボプレートを膝の上に広げ先程とは異なる桜の下で食べた。そしてウニいくら巻8巻で良かったなと明確に思ったが口には出さなかった。



家に帰ってそろそろかなと思っていた庭のタラの芽がそろそろだったので今夜、天ぷらにして食べることにした。

ほとんどの事が何かのそろそろによっていざなわれそれに応えるように生かさせてもらっているだけかもしれない。自分の意思なんてものはビックリマンのシールのようなもので時にメインのように扱われたり重宝されたりすること(してしまうこと)もあるが結局はチョコのおまけなのである。

gigadylan 

秩序を正すと秩序を乱すはある意味では同義となる。正している(保っている)様で乱している。乱している様で正している。個人がそれを判断する基準をどこに定めるか、宇宙?地球?国?地域?職場?学校?SNS?家族?恋人?友人?で無限に変動し続ける基準を前にしては常に入り乱れていることが正しい、つまり混沌に耐えうる状態を保ち続けることこそが秩序を保たれている状態であると思ってしまうのは僕だけだろうか?

"混沌の中に平穏を感じること"が出来る能力?感受性?体質?さえ身に着けることが出来れば、この世のほとんどのことは問題ではなくなる。たとえその場凌ぎで合ったとしてもその場を凌げなくてはその次の場がないのだから、その場を凌ぐっていうことは決して悪いことではないし恐らく人類は未来を想像しながらもその場を凌ぎ続けてきたからこそ今があり、明日やいつかもある気がして今を過ごせている訳である。

"混沌の中に平穏を感じること"と文字で表すと簡単な様なことに思えるが、手持ちの能力には限りがあり、多くの人が挫け、助けを必要とし宗教やスピリチュアル、心療内科やセラピーやヨガ、アルコールや煙草やドラッグ、はたまた筋トレ、マラソン 等々、、、 善悪、合法非合法に関わらず様々な補助を駆使してその場を凌がざる得なかったということをたとえ代償があった(ある)にせよ肯定出来る感性を持つべきであるし、それを持たずして秩序は保たれない。


と、日曜日の朝から新しい元号は何になるのかななんて?何になったところで自分に及ぶ影響なんてほとんどないに等しいことに対して、眉間に皺を寄せ腕組みをしながら全部を推測することは至難の業であると判断し、一文字を五候補まであげていいという秩序ある推測ゲームをしながら上記にある「ところであなたは何が言いたいのだ?」というような混沌とした限りなく論文に満たないエッセイテイストの独り言を並行して綴っていた訳だが、"萌" 、"彩"、"恵" 、"希"と女性の名前に使われそうな漢字を使うことで華やかさとかつての男社会と呼ばれたような時代のあり方との決別を暗に匂わせるものになるのではないかと絞り込んだところで後一文字はやはり、いつの時代もみんな大好き"安"にしとこうと少々投げやりではあるが、こんなことに誰に頼まれる訳でもなく当たったところでサプライズパーティーが開かれる訳でもないのにかれこれ3時間余り費やしているのだから父親譲りの無難な一文字を投入したところで推測を終えることにした。

ゲームは終えたが、ところで僕は何が言いたかった?ということが残っている。

そして思う。この世は何か言わなければ、何かしなければで溢れかえっている。

高校野球中継の解説者が、初めて見た何とも言えない選手の特徴を述べていることを筆頭に。


今日の昼も何を食べたいかさえわかっていない僕に、その何かが何かを明確にすることはセックス描写をせずに官能小説を書くことくらい難しいことである。(恐らく不可能ではない)

それでも何も食べなくてもいいとは思えないのは教育の賜物か教育の代償か生物の仕組みかわからないが、その時がくれば何でもいいから食べたいに収まり何事もなかったように次のその場を凌ぎ続ける。その何でもいいの部分を肯定、受容すべく教育を受けていれば僕らの感覚は凌ぐから、繋ぐに変わっていたかもしれない。

その場繋ぎ。

悪くないじゃないか。


その場繋ぎの合間に明確な何かを読みかけの本に栞を挟むように生きていければ。

そして今夜はスパイスカリーを作るということだけは明確に決まっている。



gigadylan




三寒四温を肌身離せず感じながら、くしゃみをし鼻水を垂らしながら朝食を食べる。 ここのところ、僕が朝食を作りトキロックを起こす、または作ってる途中に起きて来て準備に参加するということが多いのだが、たまにトキロックが調子が良さそうな時は起こされる側になりたくなり、「”ご飯もう出来てるよ、いつまで寝てるの”とほんのり苛立を含めたトーンで起こして欲しい」と懇願する朝もある。トキロックの調子は大体朝一のトイレに行って戻ってきた時の感じで大まかに感じる取ることが出来る。そして今日はその日であった。 晴れの日は太陽の動きに合わせ窓際に沿って東から南へ暖を確保しながら本を読んだりする。これと言って絶対的な予定がない日は大体そんな午前を過ごす。L92乳酸菌を昨年秋から毎朝飲み続けてきたお陰か、そもそも花粉が少ないのか慢性的な花粉症の症状が例年に比べ今年は幾分ましな気がしているが、なかなか自分が掲げたパフォーマンスを出せない時は淀みなく花粉のせいにしている。 SNSに触れたり、ブログを書いたり人に会ったりすることがまだリハビリのように感じているが、 徐々にそれが日常になっていくような気配に春を感じる。それでも暖気に誘われ焦ったように咲いて(咲かされて)しまった桜が昨日、今日で散っていく様に昨年、一昨年の自分を重ね春を待てない愚かさをその散り桜に解きたい気分である。桜にすれば"そんなの知ったことかよ"であるが、、、。 


昨年の昨日と今日は繋がらなかった。今年の昨日は今日にちゃんと繋がっていた。 

曖昧な言い回ししか出来ない事を許容することで今日が明日に繋がる。こともある。 

丁度、太陽が真上に来た頃に目が合う機会があったついでに見つめ合ってみたら、二人して声を出して泣く羽目になったのち可笑しくなって笑った。 繋がらなかったあの日から一年経ち、こうして繋がる日々になった今をささやかに二人で祝った。 


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