その片鱗を少しでも垣間見れたら。

随分と久しぶりに記事を。


ジメジメとした日が続いていた。

何も書く気がしないし読む気もおこらないことを天気や気圧のせいにして

梅雨明けを待っていた。



実は6月から新しい職場で働き始めた。

昔、お世話になった方が新しいお店をオープンするということで手伝い始めたのだが、コロナ事情はどこ行った?緊急事態宣言が明けの間違った解放感がそうさせているのか?ありがたいことでもあるのだが思っていた数倍の来客に驚く隙もないてんやわんやな忙しさに自分のスローライフは一転、悩む暇もなく全否定はしないが肯定は出来ない日本的資本主義社会の渦に再び巻き込まれて(飛び込んで)しまうこととなった。

そういった中でその構造に問題意識を持つ暇もあらず、大きな病気や、不幸、不祥事などなくここまでこれてきた人達にとっては何の疑いも持たず突き進んでしまうんだなということを体感している。そして、スピードとパワーのある者が認められ、更にそこに高いクオリティーの生産力を保てる者に従うというような職場の雰囲気が出来上がっていく様(おそらく多くの人がそれ普通のことじゃない?って思うだろう)を見ながら、また自分もその歯車のそこそこ重要な一端になりながら、一生懸命に働くお母さん方、フリーター、学生の皆さんと時間を共にしながらこれから社会に出ていくであろう子供たちにとって仕事とは人生とはこういうものでいいのだろうか?ということを考え始めると、どうしても申し訳ない気分になってしまう自分がいる。

結局のところ自分は疑問を持ちながらもその社会構造に適応出来なければいけないという観念の教育環境で育ってきてしまった功罪なのか、思いの他、適応出来てしまっており、時としてスピードとパワーで他のスタッフに有言、無言の圧をかけてしまっていることも無きにしも非ずである。

僕らの世代から上の人たちが体感してきた日本人的豊かさを保持することに安らぎがあるかどうかは謎ではあるが、そういう風に育ってきたし、今も目の前の日常はその残骸の中(言い過ぎ?)にあり、骨組みを変えることはそうとうなパワーがいるので繰り返し繰り返しリノベーションしていく必要が少なくとも自分の人生においてはあるなと思っている。少なくとも経済活動で豊かさを取り戻すというような時代ではないのではと思えてならないし、あと2〜300年もすれば、「かつてお金っていうものがあってね〜 みんなそれでやいやいやっていたんだよ〜」みたいな会話がAIも交えなされているのではと勝手に妄想している。死ぬ間際、その片鱗を少しでも垣間見れたらなと思っているがどうだろうか?


生きてるだけで価値があるということはまだまだ理想であり基本となるまでにはまだまだ時間がかかると思ってしまうのは僕みたいに違和感を覚えながらもこの社会構造に適応出来てしまう人が沢山いることで、適応出来ない人たちの苦しみを生み出してしまっているなと考えられなくもない。

そしてその状態は適応出来てるだけの人たちも適応できない人たちも両方共に生き辛さを感じさせてしまっているのではないかとも思う。

そんな中、意味のない日常がとても有意義に感じられたりもしている、休日、ベランダに小さなハーブ園を作ったり、ミニトマトやゴーヤを植えたり、モンステラを植えかえたりすることに意味はない。しかし、それとなく気分が良くなっていた、5、6、7月であった。

そんなこんなで、すっかり音楽制作はストップしてしまっていたのだが、

先日、思い立ったようにMVを作り始めたら夢中になり、すんすんすんと新曲" TOUCH W "MVを公開出来たりするのは自分にとって音楽表現というのは生きがいなんだなということを再認識させられる。

どうにもこうにもまとまりの悪い記事であるが、もし今、この現在をまとめられる人がいたとしたらそれはきっと思い込みが激しい人か思想が強過ぎる人ではないだろうか。


GD

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