大衆の賛同を得るにはまだまだ世紀を跨がなくてはいけない話

先週は少し遅めの正月休みとして実家に帰っていた訳だが、予想と覚悟をしていた母親の息子夫婦にやってもらいたいことシリーズが開幕。8割方、認知症で施設に入ってる父親にまつわるあれこれである。母はお任せすべくお金を払って預けている施設に毎日通ってあーだこーだやっている(施設の方からは僕らに任せてお母さん、もっと休んでくださいと言われてしまってるくらいに)。

母は自分の足が悪くなく体がもっと丈夫であれば本当は自宅で自分が介護したいのである。その方が体は休まらないが近くにいることで心が休まるのだと思われ、かつての水と油の仮面夫婦はこの状況になり、今また出会った頃のようにお互いを必要とし、一緒にいたいと思い合ってるように僕の目には映っている。ヨメトキーが随分と元気になった今、僕らが実家に戻り介護補助すれば母がもっとも望んでいる形になることは口に出さずとも察しているが、僕自身は家族愛という観念(血の繋がりに拘る考え方)に疑問があったりするのと、僕が感じてきた父は"何もしなければ何も起こらないし誰も困らない"の人だった。父は何につけてもよく怒っていたが、今思えば人間の欲望に対して怒っていただけなのではないかと今は思う。とにかく「そんなん、せんでいい」「そんなん、いらん」と声を荒げ眉間にシワを寄せていた。とにかく僕は母を中心とした僕らがこうあって欲しい(こうしたい)父の最期ではなく、なるようになっていく父の最期を今までとさほど変わることない距離感で見届けようと思っている。


母は自分のこうしたいに突き進む人である。"何かをし、何かが起こり、時に誰かを困らせる"側の人である。

年末に自分たちが納骨されるお寺に行き、戒名の候補をもらいにいっていた。僕らが帰ってきてすぐ、「この中やったらどれがいいかね?」と5つの候補から選ばされた。母と僕とヨメトキーでせーので指を指すことにした。僕とヨメトキーはさすがで同じものを指した。そしてこんなことに無駄にプレゼン能力を発揮し母を納得させた。翌日、妹にもどれがいいと思うか一応聞いた。妹は消去方でこれとこれはないかなということで3人が決めたものは消去されなかったので、4人でお寺に行き住職にこれでお願いしますとなった。その勢いで母も私のももう貰っときますとなり、母の戒名も暫定的に決めることになった。そしてこの日から両親を呼ぶ時は戒名で呼ぶことを採用することにした。

住職さんはこちらの質問に基本、ありがたい法話を交え返答してくれた。母は基本、葬儀のお金がどれくらいかかるのかということを具体的に聞いていた。びっくりするような額ではなかったが、葬儀にそれくらいかけるのが一般的というならば、その感覚を取り払い、未来ある命にそのお金を寄付した方がいいと思うのだけれど、仏様はどう考えられているのでしょうか?と尋ねてしまいそうにもなったが、ここは朝まで生テレビの会場ではないということを強く認識して飲み込んだ。


年末、父の調子はかなり悪かった。内臓のどこかから出血してる疑いが便から垣間見れたこともあり、14日中央病院へ検査するために連れて行った。前日、もし悪い箇所が見つかっても治療しない(出来ない)ということを話し合って決めていた(悪化することで痛みを伴う場合は出来る限りの痛みを和らげる処置をしていただく)のだが、そもそも検査自体も今の状態で出来ることはかなり限られていて胃カメラと腸のエコーを撮ってもらうことくらいしか出来なかった。それでも母が連れて行きたかったは何もしないということにどうしても罪悪感が伴う環境で生きてきてしまったからではないだろうか。母は僕がいるうちに実家一度に連れてきたがっていた。父も家に帰りたいだろうと母は思っているようだ。実際はわからない、そうかもしれないし、どこで何されるかもわかってないままいろんなところに連れ回されてる父の安らぎはもはやこの世にあるのかも謎である。それでも付き添っている僕らは父の一挙一動からこちら側の主観で何かを感じ、何かしてあげたいと思ってしまうのが常であるが、僕の思いは変わることなくもうゆっくり休ませてあげて欲しいし、母には残りの人生を父の介護以外の何かに費やして欲しい切に思う。


父と過ごしたこの何日かの数時間は、食事を食べさせたり、排泄を手伝ったり、体を揉みほぐしたり、強く抱きしめたりとこれまでの人生でもっとも父と触れ合った時間となった。

便にまみれた父の陰茎と陰嚢を拭いていた時にあまりに柔らかく伸びる(本気で引っ張れば膝くらいまで伸びるんじゃないだろうか)ることに気づく、しかも手触りもとても良く、特に陰嚢の方であるが、金玉袋っていう一般的な偏見がなければ伸びるけど耐久性に優れてそうな感じがちょっとした鞄の素材にいいのではと冗談でなく本格的に思ったりしてしまい、自分のモノも年老いた時、その様になり特に使うこともないのに付いているだけの状態に達したならば、切り取って何かしら別の用途に代用出来る時代になっていればいいなと思ってヨメトキーにその旨を伝えたら一蹴されてしまった。恐らく大衆の賛同を得るにはまだまだ世紀を跨がなくてはいけない話なのだろう。


ヨメトキーがハマりつつある神社巡りの一環で産土神様をお参りしに行った。

2拍手の音を高らかに響かせたい(ネットで調べた方法で)と欲を出し、力でないことはわかっていながらも力が入り鈍い音になってしまい、そのミスが気になり神様にそのことを謝るというようなことが神社巡りでは3回に1回くらいある。参拝に上手い下手があるのかはわからないが、相変わらず邪念が多く、参拝に集中出来てない自分を見透かされてるようで、毎回最後の一礼の際には「なんかすみませんでした、、、。」となってしまう。

せっかくだから僕が生まれた時、両親が住んでいた家の辺りも行ってみようと母から住所を聞いたのだが、google mapにその番地はなく、神主さんに聞いてもこの番地はないですよと言われ。母に再度確認しても、「ちょこっと路地入ったとこよ」と路地だらけの町で言われたまま狐につままれたような気分で帰路についた。


そんなこんなで今年の正月休みは終わった。

少しずつ今ある曲をカタチにしていければなと。

ライブの方も、嬉しいことにちょこちょこ新しいお誘いも頂いていてありがたい限りです。

停滞していた、停滞させていたいろんなことが対応できるくらいにまで整理されゆっくりと進み始めている感覚の中、少し自分に期待してもいいかななんて恥ずかしいこと思ったりしています。


gigadylan




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