ドラゴンボールがない世界の宿命

先週の話。

避難指示は出ていた。いつでも避難出来るよう準備もしていた。

けど、僕らは避難所には行かなかった。

結果、今回は大丈夫だった、僕らは。


利根川から数百メートルの所に我が家はある。

前日からやらないよりはマシだろう程度物理的な備えを施し、自然に対しての万全はないとある種の諦めを持つことで自然に敬意を払っている気になることも悪くないだろう。"もっとこうしておけば良かった"は起こってしまった後には付きものであり、付きまとわれないように諦めきれないものを極限まで減らして置くのがこういった場合の備えとしては最適であろう。

当日、裏の水路は早々に雨水に覆われネギ畑は水田に様変わり。

利根川が氾濫したら間違いなく1階部分は浸水することは覚悟した。それでも2階までは大丈夫だろう注意報を自分内発令し、一階に置いてあるアンプ等の機材を浸水に備え移動。

平屋住まいのご近所さんには何か合ったら遠慮なく家に来て下さいと連絡。僕らに限らずここの地区の多くの人が避難所には行ってないようだった。理由は大きく2つあると思う。指定された避難所がとても遠い所にあり、夜で見通しも悪く小さな川も渡ったりしないといけない中、そこまで行く方が危ないのではないかということ。そしてもう一つは利根川の氾濫や決壊を経験したことがなく、ここは大丈夫だろうという過信を誰もが持っているということ。

守る側、助ける側の立場の人達も同じ人である。ミスもあるし限界もある。天災と人災を結びつけるような声や報道は個人的には耳を塞ぎたくなる。あらかじめ凄い台風が来ると教えられていただけでもありがたく、あとは個々に支え励まし助け合うしかなと思ってしまっている僕はただの楽観理想主義者なのだろうか、、、。

助け合いに終わりはなく、災害の被害の大小に関わらず、自国、他国に関わらず、常に助けを求めてる人達がいるのは紛れもなく現実で自分に出来る範囲でそういった現実から目を背けない生き方をしたいなと思う次第である。多くの人が恐らく自分の微力さに無駄骨感を感じることもあるかもしれないけど、変に一個人に大きな力があり過ぎるとおかしなことになることもなきにしもあらず、助け合うという空気感の一部となる人達多めの社会になればいいなと思いながらこれを書いていることもまた微力ながらの一部になっていれば。


自分の中には世間的にも自分的にも不謹慎だと感じ取れなくもない感覚がある。とんでもない台風が間違いなく来ていて、自分も含め多くの人が恐怖や危険に晒されているにも関わらず、非日常な状況や未体験の何かにワクワクしてしまっている自分がいたことは認めなければいけない。その感覚に流され、命を落とす可能性を高める行動に出ないことを心掛けないといけないと自分に言い聞かせるくらいそれははっきりととした感覚である。これは今に始まった事ではないが大人になるとこの感覚が経験と共に薄れていくかとも思ったが、どうやらそうでもなくその行動が元で迷惑をかけてしまうかもしれない人間関係(妻を筆頭に)が増えたことでセーブすることを覚えただけかもしれない。

僕には危ないとわかっていながら土手などに行って携帯で映像を撮ったりしてる(それで流されたら自業自得の極み)人達の気持ちが実のところ理解できる。

悟空が強い敵にワクワクしても成り立つのはドラゴンボールがあっての話ということを肝に命じて置かなければいけないのがドラゴンボールがない世界の宿命であるなとつくづく思ったりしている。


絶対に崩れてると思っていた玄関の積み石が何事もなかったのようにあったりもして。


何でもかんでも予測想定出来るなんて思ってはいけない、文字の自動予測変換でさえ、出てきて欲しい文字が全く出てきてくれないことも多々あるんのだから。



gigadylan




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