有るものに慣れ、無いものに憧れ、有る事を忘れ。

この数年の個人的なアクシデントをきっかけに色々沢山の気づきを得た事で視野がVRレベルになり、捻くれた性格や素直に伝えれない文脈を多用する辺りは中々変わらないが、考え方や暮らし方は大きく変わって来ているように思う。

とにかく僕を含め多くの人は有るものに慣れ、無いものに憧れ、有る事を忘れ、不満や不安を募らせる事で経済を発展させてきたと言っても過言では無い側面が多大にあり、経済の発展が滞こおるべくして滞り続けてる今(まだ発展させようと資本主義に基づいた恐怖を煽り試行錯誤している人達を非難することはないしマネーゲームでワイワイやるのも一時的には楽しいとも思うが、その過ちに気付いたり感じたりしている人達をどうか巻き込まないでおくれとは思ってしまう。)

有るものに慣れ、無いものに憧れ、有る事を知った上で追い求めながら安心して楽しく暮らせば良いだけではないかと今の僕は思う訳で、実際に食べるものも日々大量に捨てるほどにこの国にはあるし、住めるのに住んでいない家も困るほどにあり、助けれるのに助けるのに手間を要するシステムが蔓延してることに気づいてる人達は子供の頃教え込まれたことを棚に上げ、楽しく暮らすことにエネルギーを注ぐべきである。

こんな話を母にすると、この子大丈夫か?頭おかしくなってしまったんか的な会話になるが、要はお金がないと生きていけないと思っている人達にとってお金がなくても楽しく幸せに生きていかれる事は脅威であり、安倍政権はじめ企業やテレビにしてみたらある意味反社会勢力かもしれないなんてことを思ったりもしているが、革命的なことに興味はなく穏やかに共鳴し合う人達が焦らずゆっくり各々の心地良さを大事にすれば、僕が年老いた頃には違った景色が見れるような気がしている。もし思ってたのと全然違う未来になったら気のせいだったで大体のことは片付ければいいし、その頃には僕の気の方も変わっているでしょう。(老人というカテゴリーに配属されるまで生きていればの話であるが)





時折、瞑想の真似事みたいなことをしてみている。自然に包まれ気持ちいいなと感じたいなと思って山に行ったりしている。目を瞑り、川のせせらぎや、小鳥のさえずり、風の音を聴きながら、呼吸に集中しようとする。そして心置きなく屁をこいたりする。ビール呑みたいななんて思ったりもする。もちろんエロいことが浮かんだりもする。こんなことしてる場合じゃないなと思ったりもする。何やってるんだろ?と思ったりもする。可笑しくなってきて笑いを堪えたりもする。

そしてそれなりの時間が過ぎたと感じた時、ふっと立ち上がって。

来る前と寸分変わらぬ自分の内心を捕らえ、


得るものはなかったが失うものもなかった。

これが無というもの なのか


と帰路についたりもしている。



gigadylan







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