ひょんなこと から。

先の年末年始、実家に長めに帰った。認知症になった父と意思疎通が取れる最後の正月である気がしたからだ。予想に反することなく症状は進んでいた。仮面夫婦を公言していた二人はずっと別室で寝ていたが介護を期に同じ部屋で寝るようになった。(夜中になると父の幻覚やらトイレやらでまともに寝れてないが、、、) 僕は同じベッドで抱き合って寝ることを勧めたが、母は断固拒否した。昭和のモデルライフに抗うことなく買った2階建マイホームの2階はただ4部屋が平家に乗っかってるだけの状態となっていた。

数学の教師であった父が引き算を出来なくなったと母から聞いた時、この人は人生を懸け身をもって僕らを笑かそうと、とっておきのボケを披露したと思った。もちろん僕は心の中で「何でやねん」とツッコンんだ。6月に帰った時、父は日に日に色んなことが出来なく、わからなくなっていく自分に冗談で「もうボケてもうとるから」と笑いながらも戸惑っていた。そんな父に僕は”人生をどう終えたいか”と率直に聞いた。父は「この先、迷惑かけると思うけど、のんびりさせてくれ。あとはお前らの好きにしてくれ」と言った。そこには長男であるお前がちゃんと面倒みてくれという意味合いも強くあった。父は直接僕には言わないが母には僕に神戸に戻って来て欲しがっていた。抗っても良くなることはないことを痛感していく中で、なんとかしようとする母と妹の思いとは裏腹に諦めてしまっていた。もともと自分が無駄だと感じたことをするのがとても嫌いな人だった。

僕は父の部屋を主に数日かけて実家を片付けていた。父には趣味という趣味がなかった、親友と言える友達も僕が知る限りいないように見えた。定年まで教師として勤め上げ、借金もなく恐らく不倫も出来ず、人にほとんど迷惑をかけることなく日常に波風を立てない無難をこよなく愛せる人だったと僕は捉えているが、実のところ父のことをほとんど知らないというか必要以上に興味を持ったことがなかった。ただこの人のような人生は送らないと思春期の頃は強く思った。そしてそれは今も変わらないが、思春期の頃あった薄っすらとした嫌悪感は跡形もなくなっていた。

父に残して置きたいモノ、要るモノはあるかと聞いたら、「何も要らない、どこかからお金が出てきたらお前にやるわ」とまだこんな冗談も言えるんだぜという顔で答えた。片付けながら、父は残したいモノではなく捨てるのが面倒だった多くのモノに囲まれて生活していたことが垣間見れた。多くのものは僕が子供の頃、目にしていたものがそのまま、もしくは使えなくなったままの状態で保管でも保存でもなく至る所にただ在った。僕はそのほとんどをゴミとして分別していった。

綺麗にファイルされた古い写真アルバムと勤めてた学校関連の人達の連絡先(お葬式の時もしかした必要かも)、いくつかの記念硬貨。そして一昨年書いていた父の日記だけ、綺麗に整理して閉まった。

その日記の始まりは"ひょんなことから日記を書くことになってしまった。"だった。

その日記は10日足らずで、"もう書きたくない" と書いて終わっていた。その日記を読んだ後は

少しばかり身体が固まり涙が出たが、父にとって自分が認知症になったことはひょんなことであったんだと思うと笑ってしまった。そして僕がバンドを出来なくなってしまっていることもまた、ひょんなことからなんだなと思えた。

レビー小体型認知症の父には幻覚が見えていた。本人は”これ病気のやつやな”とうっすらまだわかりながらも気持ち悪いことに変わりはなく、The理系街道を逸れることなくここまできたもので、不思議なことを受け入れる能力が0に等しく、その不思議すぎるであろうその状態に狼狽え、「これは考えたらあかんやつやな」と自分に言い聞かせながらも不快感を訴えていた。これを毎日一緒にいる母に訴え続けたら母の今に支障がで過ぎることは間違いなかったし、すでに夜中に起こされることで支障は出ていた。

母にこれは専門の人たちに任せるべきだと僕は介護付老人ホーム(グループホーム)への入居させることを勧め、年始早々二つばかり電話して見学に行った。その一つは偶然にもかつてのバンド仲間が立派な立場に就き働いていて、これは運命的なやつか!?と違う方向にテンションが上がってしまったが、他にも色々見て、基本的に母が通いやすく、父の年金で賄え、父にとって(今となってはこちら側の主観でしかないが)合ってるのでは思えるところを前提に母と近くに住んでる妹に後のことは任せた。

父とは違い、"好き嫌い、こうありたい、こうあるべき"がある母の最期はなるべくその意向に沿ってあげたいと思い、葬式のやり方や納骨する場所など大まかなことをこの機会に確認した。その中で母が指定した骨壷は元々紅茶葉が入っていた小さな綺麗な陶器の壺であった。それは父と自分の分、色違いで二つあった。こんなお茶目に納骨堂に並ぶ気があるなら、何故もっと仲良く出来なかったんだと思ったりもしたが、数学教師と音楽教師、ないものに惹かれあったが、きっとあって欲しいものが少な過ぎたのだろう。




今朝、母から電話があった。「父さんが話すると言ってるから代わるわ」と父に代わった。

最初、「今日は近江マラソンか?」と聞かれたので「そうかもしれんけど、僕は走らんで」

と答えた。「そうかあ、元気しとんのか?」 「元気にやってるよ、父さんはどうや?」

「元気は元気やで、この機械が難しいてなんやわからんけどな、、、。まあ元気が一番ええな、元気がええわ。     また帰ってきてくれな、、、。       ほなまた。」


問題はいくらでも作れるし世間によって作られたりもする、解くことに苦しむよりも解かないことを選ぶとそれは問題ではなくただの事柄となる。そしてその事柄に触れる時、僕(人々)は出来る限り元気であった方がいい と 今の時点では思っている。


gigadylan













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