その時、音楽は。

最近は彼女の音ばかり聴いている。

ピアノの旋律の音色に加え、彼女の息遣いや、ペダルや床を踏む音、鍵盤が擦れる音、そこにあった空気の音全てをそっくりそのままくり貫いたかのような音に僕は虜になってしまった。それは僕が最近聴いた他のピアノアルバムにはないものであった。



少しばかり振り返ると

昨年の始めは音楽を聴けなかった。純粋な拒否反応として触れれなかった部分と今は触れてはいけないという理性を施した部分が入り乱れ結果的に触れなかった。不思議なもので、お店で流れている音楽であるはずのものも僕にはただの音として通過していっていた。

ある時期からトキロックの治療も兼ねアンビエントミュージック的なものが何か心身に平穏をもたらすのではと聴き始めた。心を落ち着かせると謳ったスピリチュアル系の音楽も流したりもしたが、それらのほとんどが僕やトキロックの耳には不快に響き平穏を妨げた。色々流した挙句、毎朝、Lullatoneの"Plays Pajama Pop Pour Vous"を流しながら朝食を食べ、夜はBrian Enoの"Ambient 1: Music for Airports"かたまに"Ambient 2: The Plateaux of Mirror"を流しながら寝る(トキロックは寝る時は無音を好んでいたので、大体はトキロックが寝た後、秘めやかに流していた。)というサイクルに収まった。"Ambient 1"は僕が生まれた1978年に発表されたEnoのアンビエントとしての処女作だった。具体的ではない何かに縋り付きたくなるくらい疲弊してしまった時は、そういったことに具体的でない親近感や意味を感じることで平穏を手に入れようとした。それは置いといても誰もが認めるように"Ambient 1"は素晴らしい作品である。いつの間にか眠りにつけていたという点に置いては特に。


昨年は自発的に波風を立ててしまうような行動(音楽に触れるということも含め)は控えに控える努力をし続けていたが、たまにネジが弛み僕自身がおかしくなることもあった。

何故、YouTubeがその時期に僕に薦めてきたかのはわからないが、僕はその動画をクリックしてしまったことは確かでその動画を観て興奮したことも確かである。

FujiRockでのパフォーマンスも生配信で観たのだがトキロックと二人して泣かされてしまった。

何かトラブルがあったのか、単なる気分の揺れなのか、客の反応が気に食わないのか、とにかくボーカルの彼女に何らかの怒りがあり、それが生々しく溢れ出てる姿があまりに美しかった。

そして人間がそうあれる世界を無性に愛おしく思えた。


おそらくこれを読んだ人はもっと音楽って気楽なものじゃないのと思うかもしれない。僕もそう思ってるし、今は気楽に触れれるようになってきている。

ただ僕らは(主にトキロックであるが)特に昨年は普通だと思っていたことが普通でなくなっていた。当たり前に出来てたことが当たり前でなくなっていた。起きること、食べること、眠ること、それらの行為を日常としてすることが難しくなっていたし、お風呂に入ることや人に会うということはさらにハードルの高い行為となっていた。僕自身も物心ついてから初めて布団とトイレしか必要としない1日を幾日か経験した。それは考えようによってはとても幸せな時間だった。いつも何かしなければと洗脳されてしまったかのように生きてきてしまったし、社会も何かをしないといけないように作られてきてしまっただけだという気付きを得ることが出来た。話が少し逸れたが、とにかくただ生きるということさえ難しいことになってしまった時、自分の大事なものを強い意志で閉じ込めて置く時間を持つことも必要であるのかもしれない。これは誰にでも当てはまるような結論ではないが、少なくともその時間を持つことによって僕とトキロックには今がある。


gigadylan


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