冒涜の準備。

ここのところ自分だけが訳分かる絵みたいな模様、模様みたいな絵をアプリでずっと書いている。

画材道具も一切なく手も服も汚れず、誰に対してなのかわからないがほんのり罪悪感を覚えながらも、かつて"かっぱえびせん"がそうであったように止められない。

いや、"かっぱえびせん"を食べる行為の方が手が汚れる分、僕が絵を書く行為よりも手重である。

そう考えるとますます罪深い。




音楽もまた同様にこれからは楽器ではなく楽器のようなもので容易に奏でられ鳴らすことが出来るようにきっとこの先ずんずんなっていくだろう。そのことに僕は異様にワクワクせざるを得ない。

芸術が前か後ろか上か下かわからないがとにかく進んだ(駒が動いた)と感じる時、必ず過去の美意識への冒涜が含まれていると僕は歴史からざっと汲み取り、強くそのように認識している。

とすれば、僕は僕の過去の美意識に対して冒涜を試みる準備をしなければならない。

自分が芸術に敬意を払う側の人間であるとすればの話であるが。


gigadylan



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