彼はツカレ ナイ
自覚出来る程の疲れを我が身に感じていた。浸かるべきものに浸からなければいけないと思いつつも浸かれず仕舞いの日々が続いていた。来たるべく週末、然るべき場所へ車を走らせ浸かるべきもの浸かっていた。浸かっている自分の周りの岩場を浸かる気配のない推定7.8歳の全裸の少年が細心の注意を払いながらぐるぐると割と広めの露天の岩場を伝い歩いていた(場所によっては四つん這いになったり)。僕はその少年の男性器と玉袋があまりにも可愛く綺麗なのでしばし見とれていた。しばらくして父親らしき方がやってきて、何の躊躇もなくさくっと浸かった。そして少年は父親に「今、絶対に濡れないゲームをしているんだ、すごく楽しいからずっとやっていたい。」と告げた。
父親は何一つ咎める事なく、笑顔で自分が浸かるべき時間浸かり終えると、一滴も湯に触れる事なくゲームをクリアした少年を称えることもなく共に健やかな顔で露天を後にしていった。
その光景は僕の疲れを取るには十二分な光景であった。
僕は使った事ないテレパシーを使ってその少年に「You are the winner here!」と伝えた。
常識とは何か?を考えてきた。今もなお考えている。
自分は常識に囚われたくないと思っているようだ。裏を返せば多種多様な常識に囚われている身であるということでもある。また囚われないということと非常識を推奨するということも全然違う。
その行いに置いて本人に常識、非常識の認識がない、もしくは瞬間的に吹き飛んでしまっている状態で囚われている者から見たら非常識に感じるが致死に至る害のない行いに対しては咎めることなど何もないと強く思っている。なぜなら常識は非常識を咎める為のツールではなく、多くの人が多くの場合、そうであれれば安心出来たり、無駄に感情を左右されない為の良くも悪くも安らぎの共通認識であるだけなのだから。
いつの時代も咎めたがり屋達の常識が風潮として蔓延し、謝るべきことでもなかった事に謝罪しなければなくなったり、反省しないといけないという僕からすれば非常識を押し付けられたりしているのをニュースや街中で見るたびに、人々の心の豊かさを削り取っていっているように感じてしまうのは僕だけだろうか。
今日もジメジメ。洗濯物の乾き具合以外、特に気に触ることなし。
ライブに向けて、さあどうしようか? まだ定まらず。
15年ぶり?に歌ってみた。「安住の地」
gigadylan
0コメント