核なし。

何不自由ないことを認識し、体感していても憂鬱な気分になる時がある。

何かのせいに出来るとすれば、ほとんどのことは気圧のせいなのだと思っている。

実際、台風が近づいてくると驚くほどに朝、布団から出れなくなるものだ。

未来に対しては僕の次元では考えてもわからないし、ここ二世紀くらいの人類の歴史と自分のこれまでを踏まえたら先のことは不安になりようがない。数ヶ月先くらいの予定を時に鼻息荒く、時にダラダラと繋げていく人生に今は魅力を感じている。

こんなことを言っている自分がいること自体、予想もしなかったし6年前ならこのような発言に嫌悪感すら抱いていた訳でこの先自分がどうなるかに対して自分が出来ることは思っている以上になかったりするのである。


ここ数年の自分に起こった出来事や世界で起こっている出来事の中で自我を掘り下げた時、自分の核なるものは何か?となるとどうしたって"無"になってしまい自分はオリジナルであるようであってありとあらゆる無数の何かのコピーであるというのが現時点での僕が体感できてる自分の状態なのであり、その核となる無から筋を通すとなると一貫性が失われるのは当然のことで、一般的には筋の通ってない無茶苦茶な人間と思われても差し支えはないのであるのだが、どうか過去の拘りや発言を撤回しやすい空気の社会になれば人々はもっと生きやすくなるのではと思ったりしている水曜の昼下がりである。



なかったことには出来ないが、あったところで今は違うということの方がきっと多く

普遍的なものに惹かれたり美しさを見出してしまうのははきっと希少だからなのではないだろうか。










GD

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