根底、覆えったらば。

根底を覆されたまま、雨風に晒され、生きていれば本来浴びることのない太陽の光を浴びた木(ボク)の根が傾いた大木に絡まりぶら下がっていた。「待たせたな、更なる日の目を見る時が来たぞ」と言いかけたが、随分と上から目線なセリフだなと猛省し、その発言が頭に浮かんだことを浅く謝罪した後、丁寧に絡みついた枯れ草を外し家に連れて帰った。

このボクの根の扱いは他のボク達と違い繊細な箇所が多く細心の注意と敬意を払いながら洗浄し天下干しした後、ヤスリもかけず、なるべくそのままの状態がいいなと透明の塗料で軽くコーティング?だけした。

出会った時から、これは玄関開けた瞬間に見えるところにしつらえようと決めていた。


これはアートではない。


ただのひっくり返った木の根だ。


そしてそれはどこにも根付いていない


今の自分の姿である。

自分の当たり前で構築してきた日々が崩れた時、自分の中にもともとあったのか?通りすがりの獣が取り付けていったのか?思いもよらぬ引き出しがあることに気づくこともある。

その思いもよらぬ引き出しによる仕業をいくつか。


本来トイレットペーパーホルダーが必ずしもトイレットペーパーホルダーである必要はないのである。


そうでなければいけないと思わされてた事や物に囲まれて、そうでなければ豊かではないと思い込めた僕らは、自分たちがどれだけ富んでいるかに気づかないまま、そのことを子供達に伝える術を持たないまま、怒りや悲しみや恐れを表現してしまわないようにしたいな。

思うことは今夜のスーパムーンを眺めていれば簡単なことであるが、普段は、、、、。


月の美しさが伝わらないと気づき、影推しに強引に切り替える柔軟さを。

今は具体性より方向性を希望に変換する時なり。


gigadylan

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