書きかけの年賀状と共に。

母が急逝した。 


慌ただしい年末年始を過ごし、一旦、岐阜に帰ってきて一息ついている。
哀しみはないが淋しさはある。そんな心模様。
とりあえずは8日京都nanoのライブに向けて整えることから。
その後、また神戸に帰ってあれこれを、、、。


クリスマスの日、母から年明け帰って来る時にあなたのスシローの株主優待券も持ってきて、みんなでスシロー行きましょう。(昨年の母は好きなテレビ番組の影響と株を保有したことで死ぬまでに一度はスシローに行ってみたいと言っていた)という電話が掛かってきた。「はいはいわかったわかった。」と笑いながら電話を切った。それが母との最後の会話となった。


翌日、ダウン症の弟から「お母さん、倒れた。今、救急車呼んでる。この後どうしたらいい?」という電話。「すぐそっち行くから、一緒に救急車乗って、病院行っといて。母さん、話できる感じ?」「話せない、、、。あっ今、救急車来た!!」「すぐ行くから病院の名前わかったら電話してな。」 妹に電話。仕事中で繋がらず、LINEを入れておく。
簡単な荷造りとスシローの株主優待券を持って神戸へ。

道中、妹からかなり厳しい状態だという連絡が来る。
んー 、、、。そっかあ、、、、、、、、、、。 クリスマスと正月の間に、もひとつイベント入れてくるかあ、、、。  なんか母さんらしいというか、さすがやなあ。
えっ この流れでいきなり喪主?
そんなことを頭の中でぶつぶつ言いながら車を走らせる。


19時半、病院到着。直様ICUへ通される。
錚々たる生命維持装置に囲まれながらただ眠っているようないつもの 母の姿がそこにあった。

トキロックと二人、母の手を握り「母さん、起きて!!スシローどうすんの?スシロー行くって約束したじゃない!ほら株主優待券も持ってきたよ!」 と涙を流しながら話しかける。あの世に行きそうな人に対してひたすらスシローでこの世に連れ戻そうとしてる息子夫婦の姿がそこにはあった。
恐らくカーテンの向こうの先生や看護師さんは笑いを堪えるのに必死だっただろう。
逆の立場だったなら堪える自信はない。

主治医から今の状態と今後のことを説明される。
妹と話して母に負荷のかかる延命はしないということを伝える。 


そこから約2日、母の心臓は動き続け、28日の朝、病院から「そろそろかもです」という連絡が入り病院へ。徐々に落ちていく心拍数と下がっていく血圧をぼーっと見ながら、好きなように生きて楽しい時もしんどい時も頑固なまでに我を通し 続けた人だったなあと母と過ごした時間を思い返したりしていた。

午前11時。ピーーーーーーという音に変わり 母さんありがとうと家族皆で言葉をかける。 主治医がやってきて心音を確認しようとするも、「嘘よね〜」とばかりに心臓が再び動きだす。 一度、感動的なフィナーレを迎えた後であった故、 えっやり直し?、、、みたいになり思わず皆笑ってしまう。 先生も心臓停止待ちになり、ばつが悪そうに「一旦戻ります。」と席を外す。 再度枕元駆け寄った瞬間、突然母の瞼がぱっと開く。 えっ嘘でしょ! となって思わず看護師さんにこういうことよくあるんですか?と聞いてしまう。看護師さんも「いや?、、、」と困惑顔に。 そしてそのままゆっくり目を閉じていきそのまま還らぬ人となった。 


3年前に他界した父と同じ75歳、同じ年数生き、同じ病院で息を引き取った。 父と同じ葬儀屋さんにお願いして父と同じ場所で通夜、葬儀をし同じ火葬場で灰となり骨になれた。 年の瀬の忙しい時に多くの母の友人(僕も子供の頃お世話になった)にも参列してもらえた。 棺桶に入ってる母の姿はいつものように穏やかに寝ているようであったので、久々に会った母の友人からすれば 変わり果てた姿になっていたのは僕の方であった。 

またこんな時にしか会えない従兄妹と会えたり、全然会ってなかった地元の同級生に会えたりしたのはそれでそれで良い時間であった。

この間、随分とトキロックが僕を支えてくれていたことは言うまでもないのだが、言っておきたいほどに助けてもらったように思う。



母は倒れる直前、辰ではなくお地蔵さんを描き今年で最後にさせてもらいますという一文を添えた年賀状を書こうとしていた。 



もしかすると母自身は自分の残り時間がなんとなくわかっていたのかもしれない。 


それにしても、母さん、最期目開けたん何やったん? 



GIGADYLAN

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