怪しいもの

自分の気持ちというものが定かではない、どこからどこまでが自分であるかがわからなくなって久しいのだが、無我であるかというとそれもまた怪しい。

未だ欲求は後を立たず出てきては消えていく。

それらを追いかけれる時もあればただ眺めて見過ごす時も。

どちらにしても既に満たされている(生物として)という感覚の上での出来事となる。


大体のことがあやふやでぼんやりと、境界線の引き方も忘れてしまったような暮らしの中で
何かを思っているようで何も思っていない。


つまり呆気っと暮らしている。


これでいいのだとも感じつつ、一歩外に出たらそういう成り立ちをしていないあれこれに対して対応できる自分もいたりして自分が歩んできた環境の中で培ってきた何かだったり、染み付いてしまった何かがその場から発される何かに反応して言葉を発したり行動したり。

その場その場によって違う作用が働くのでそこに一貫性はないがある程度の幅の中にはいる
気がして、おそらくそれが僕が知るべき"足る"なのだろう。

何にせよ、自分というものは他者やAI、肉体外に在るものによって型取られ認識させられる怪しいものというのが今はしっくりきている。


何者かになろうと、何者かであろうとしていたあの頃は密かにどことなくいつも苦しかった。


MOTHERCOATが "音楽のようなもの"として今、在るように、自分も”人のようなもの"として

ここでは呆気〜と、外ではわいわいと在れればそんな贅沢な日々ないなと

もの思いに耽れた


そんな雨上がりの午後であった。




GIGADYLAN

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