gigadylan

mothercoatという拭い切れないようなバンドの雑巾を担当してます。

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雪桜に公

ジュン(2009年から2017年までmothercoatに在籍したドラマー)から渋沢栄一公(以下"公"という)が一万円紙幣になるというニュースを聞きつけバンドのLINEで祝辞を送ってきた。絡みづらいシニカルジョークを交え返してみたところ、恐らく面倒に思えたのだろう途絶えた。ここは素直にThank you, I'm proud of it.と返すべきだったのだろう。仕事帰りの電車で氷結を飲んでいたので仕方ない。それはともかく以前近所の渋沢栄一記念館にある何かで、その昔千円札の候補になったことがあったが髭がなかったせいでオーラに欠け伊東博文に敗れた。というような記事を見た記憶があったので時を経てやはりそうなるべく人はなるもんなんだなと、芸術に置いても同じような現象は多々起こっており、作品や功績が時を経て再認識されるのは人の一生を永遠と結びつける架け橋のようで素敵なことだなと思ってみたもののそう言いたいだけかもしれない。たまたま条件に合い移り住んだこの家の近くに公の生家があり記念館があった。いつぞや現代史で登場したであろう公のことは全く覚えていなかったが、移り住んだことで知り、少しばかり興味を抱き、うっすらと親近感を覚えた。ただそれだけのこと。ただそれだけのことであってもなんだかとても嬉しく、ここの住んでいることを誇りに思えたりする自分の脳の構造に驚きながらも感謝している。そんな小さな盛り上がりの中、今朝、目覚めると桜に雪が積もるという祝いなのか嫌がらせなのか判別に困る景色が広がっていた。珍しいことに触れることは嫌いではない性格上、これは雪桜と公の像を一緒に写真に収めておくべきだと青淵公園に、そして公の像のところまで行くと驚くべき光景が。普段ほとんど人などいない公の周りに人だかりができていた。そのことの方が珍しく思えその光景も含め写真に収めたかったが、昨今のプライバシー事情を加味すると気温に比例してモチベーションも下がり公に背中を向け雪桜をせっかくだからという記念に何枚か収めた。

さかれ、いざなわれ、こたえた。

天候と週末がハイタッチ。平成最後の桜がガッツボーズ。桜の花びらと共に乱舞する人、人、人。これほどまでにチャラダサい表現を出来てしまうほど素晴らしいひと時に今日は触れることが出来た。朝食を食べ終えた時点で昼に無性にケバブが食べたかった。催されていたさくら祭りの会場にいくつか出店があるとトキロックから聞いていた。が、ケバブ屋はなかった。が、桜は咲いていた。深谷駅前の会場周辺では献血へのご協力の呼び掛けと明日に控えた埼玉県議会選挙演説の為訪れた共産党の立候補者の演説と高崎線遅延のアナウンスが入り乱れる中、子供達がダンボールで作った力士を大きなベニヤ板の土俵に縦横無尽に並べ、戦略もなければ勝利するコツも誰一人見出せないままひたむきにベニヤを叩き続けるというカオス相撲に花を咲かせていた。僕らはそれを横目にサクラ色したロゼの甘酒(色以外どうロゼなのかはわからなかった)を飲みながら会場である神社でお参りした後、川沿いを桜に沿って散歩することにした。もちろん木々のコンディションの違いによる咲き乱れ方の違いはあれど僕らを満足させることは今年の桜たちにとっては花びらの上で軽く躍らせるくらい容易すいことであった。

混沌の中に平穏あり。

秩序を正すと秩序を乱すはある意味では同義となる。正している(保っている)様で乱している。乱している様で正している。個人がそれを判断する基準をどこに定めるか、宇宙?地球?国?地域?職場?学校?SNS?家族?恋人?友人?で無限に変動し続ける基準を前にしては常に入り乱れていることが正しい、つまり混沌に耐えうる状態を保ち続けることこそが秩序を保たれている状態であると思ってしまうのは僕だけだろうか?"混沌の中に平穏を感じること"が出来る能力?感受性?体質?さえ身に着けることが出来れば、この世のほとんどのことは問題ではなくなる。たとえその場凌ぎで合ったとしてもその場を凌げなくてはその次の場がないのだから、その場を凌ぐっていうことは決して悪いことではないし恐らく人類は未来を想像しながらもその場を凌ぎ続けてきたからこそ今があり、明日やいつかもある気がして今を過ごせている訳である。"混沌の中に平穏を感じること"と文字で表すと簡単な様なことに思えるが、手持ちの能力には限りがあり、多くの人が挫け、助けを必要とし宗教やスピリチュアル、心療内科やセラピーやヨガ、アルコールや煙草やドラッグ、はたまた筋トレ、マラソン 等々、、、 善悪、合法非合法に関わらず様々な補助を駆使してその場を凌がざる得なかったということをたとえ代償があった(ある)にせよ肯定出来る感性を持つべきであるし、それを持たずして秩序は保たれない。

yeS todAY

三寒四温を肌身離せず感じながら、くしゃみをし鼻水を垂らしながら朝食を食べる。

ここのところ、僕が朝食を作りトキロックを起こす、または作ってる途中に起きて来て準備に参加するということが多いのだが、たまにトキロックが調子が良さそうな時は起こされる側になりたくなり、「”ご飯もう出来てるよ、いつまで寝てるの”とほんのり苛立を含めたトーンで起こして欲しい」と懇願する朝もある。トキロックの調子は大体朝一のトイレに行って戻ってきた時の感じで大まかに感じる取ることが出来る。そして今日はその日であった。

晴れの日は太陽の動きに合わせ窓際に沿って東から南へ暖を確保しながら本を読んだりする。これと言って絶対的な予定がない日は大体そんな午前を過ごす。L92乳酸菌を昨年秋から毎朝飲み続けてきたお陰か、そもそも花粉が少ないのか慢性的な花粉症の症状が例年に比べ今年は幾分ましな気がしているが、なかなか自分が掲げたパフォーマンスを出せない時は淀みなく花粉のせいにしている。

SNSに触れたり、ブログを書いたり人に会ったりすることがまだリハビリのように感じているが、 徐々にそれが日常になっていくような気配に春を感じる。それでも暖気に誘われ焦ったように咲いて(咲かされて)しまった桜が昨日、今日で散っていく様に昨年、一昨年の自分を重ね春を待てない愚かさをその散り桜に解きたい気分である。桜にすれば"そんなの知ったことかよ"であるが、、、。 

aLEtTa

去年から家で何か出来る仕事はないかと伊勢崎にあるギターのパーツを作っている会社の委託内職をしている。その会社の製品はブリッジやらサドルやらトレモロやらシンプルそうに見えるものから複雑そうなものまであらゆるパーツが全部手作業でキメ細く作られていた。僕が使ったこともないようなチューニングが狂わないことに命を掛けてるといっても過言でもないブリッジの工程はそこまでやるのかと面食らうほどの作りであった。てっきり今やほぼほぼ機械である程度のところまで組み付けられていると思っていた僕は深く感銘を受け、それらを自分が組み付けるのかと思うと一時的に胸が高まった。そしてそれはやってみると難しいというよりも、やはり細かい工程が多く、思っていたより慣れてきても時間がかかる作業であった。時給にすると平成も終わりかけているのに昭和の香りがするくらいであるが、トキロックも僕も家で具体的な何かやれることがあった方がいいという点に置いてと、モノ作りの真髄を体感出来る点に置いてはとても良かったなと思っている。またそこで働いてる人達が漂わす空気が僕は好きである。しかしながら、徐々に仕入れと納品の移動時間や実際の作業時間に費やす時間が惜しく感じるようになってしまったので今月いっぱいで辞めさせてもらうことにした。その感情は僕が自分の音楽を作り始めようとしている証拠でもある。モノ作りに置いて大事なことは時間をそのことに対して惜しみなく使いたいと思えることでなければいけない。いやはやどうしたものか、今回はALETTAという最近懇意にさせてもらっている野菜の話に辿り着いた経緯を書こうと思っただけなのであるが、上記のような経緯の奥の経緯を書かなければその経緯に偽りがあるのでは思ってしまう自分に異常性を感じ、今し方、画面の前で脳がフリーズした。とは言え書いたからと言って犯罪になる訳ではあるまい、気にせずキーボードを打ち進めてしまおう。(この文もまた無駄である。)

it iS not Time tO advance the Piece now.

自我に重きを置いた行動を少しばかりとり始めたことから行動の制限を促すいくつかの出来事に遭遇することとなった。これでも長考の末の一手であったのだが、更なる長考を守護霊的な何かが僕に忠告している気がしてならない。  "今はまだ駒を進める時ではない"今年は本厄である為、去年に引き続き乗り気ではなかったが、ここ数年の得体の知れない身の回りの災いごとに、もはや神頼みもやむ終えないという訳で年初めに厄祓いをしてもらった。去年と同じ若い宮司さんであったのだが、時期がズレたこともありマンツーマンでのご祈祷となった。そういった場においては些細なことが全て笑いのツボを刺激する故、祈祷中はずっと下唇の内側を噛むことで対処した。祈祷後はかなりフランクに話しかけられ「儀賀さんって去年も来られましたよね、珍しい苗字なんで覚えています。」という流れから当然出身を聞かれ、「僕は神戸なんですけど、祖先は三重の方みたいです。」「へえ、そうなんですか。僕、ずっと伊勢神宮で研修していたんですよ。」「そうだったんですかあ、僕も一昨年、お詣りに行きましたよ。」、、、、「今日もうご祈祷とか誰も来なさそうですよね?良かったら今から呑みに行きません?」と言えるような雰囲気で今年の厄は祓われた訳であったのだが、去年も祓われてこれかと思ってしまうくらい転機に訪れるとされてる災厄がドアを蹴破って入ってきており、今年もまたノックされてるなと感じる出来事が早くも起きており、まあ全て厄年だからということで苦虫を舌で転がしつつも駒を一つ二つは進めれるように注意深く、まろやかな一手を捻り出すのがしっかりと置くべき場所に方位を定めお札を置いている僕の定めなのだろう。と、ここまで書いておきながら耳を澄ますと行動の先に弊害や障害が生じるのは至って健全なことであり、何もせず、何も起こらないように努めた時間に慣れすぎてしまっただけではないか?という内なる声が聞こえなくもない。

ひょんなこと から。

先の年末年始、実家に長めに帰った。認知症になった父と意思疎通が取れる最後の正月である気がしたからだ。予想に反することなく症状は進んでいた。仮面夫婦を公言していた二人はずっと別室で寝ていたが介護を期に同じ部屋で寝るようになった。(夜中になると父の幻覚やらトイレやらでまともに寝れてないが、、、) 僕は同じベッドで抱き合って寝ることを勧めたが、母は断固拒否した。昭和のモデルライフに抗うことなく買った2階建マイホームの2階はただ4部屋が平家に乗っかってるだけの状態となっていた。数学の教師であった父が引き算を出来なくなったと母から聞いた時、この人は人生を懸け身をもって僕らを笑かそうと、とっておきのボケを披露したと思った。もちろん僕は心の中で「何でやねん」とツッコンんだ。6月に帰った時、父は日に日に色んなことが出来なく、わからなくなっていく自分に冗談で「もうボケてもうとるから」と笑いながらも戸惑っていた。そんな父に僕は”人生をどう終えたいか”と率直に聞いた。父は「この先、迷惑かけると思うけど、のんびりさせてくれ。あとはお前らの好きにしてくれ」と言った。そこには長男であるお前がちゃんと面倒みてくれという意味合いも強くあった。父は直接僕には言わないが母には僕に神戸に戻って来て欲しがっていた。抗っても良くなることはないことを痛感していく中で、なんとかしようとする母と妹の思いとは裏腹に諦めてしまっていた。もともと自分が無駄だと感じたことをするのがとても嫌いな人だった。僕は父の部屋を主に数日かけて実家を片付けていた。父には趣味という趣味がなかった、親友と言える友達も僕が知る限りいないように見えた。定年まで教師として勤め上げ、借金もなく恐らく不倫も出来ず、人にほとんど迷惑をかけることなく日常に波風を立てない無難をこよなく愛せる人だったと僕は捉えているが、実のところ父のことをほとんど知らないというか必要以上に興味を持ったことがなかった。ただこの人のような人生は送らないと思春期の頃は強く思った。そしてそれは今も変わらないが、思春期の頃あった薄っすらとした嫌悪感は跡形もなくなっていた。父に残して置きたいモノ、要るモノはあるかと聞いたら、「何も要らない、どこかからお金が出てきたらお前にやるわ」とまだこんな冗談も言えるんだぜという顔で答えた。片付けながら、父は残したいモノではなく捨てるのが面倒だった多くのモノに囲まれて生活していたことが垣間見れた。多くのものは僕が子供の頃、目にしていたものがそのまま、もしくは使えなくなったままの状態で保管でも保存でもなく至る所にただ在った。僕はそのほとんどをゴミとして分別していった。綺麗にファイルされた古い写真アルバムと勤めてた学校関連の人達の連絡先(お葬式の時もしかした必要かも)、いくつかの記念硬貨。そして一昨年書いていた父の日記だけ、綺麗に整理して閉まった。その日記の始まりは"ひょんなことから日記を書くことになってしまった。"だった。その日記は10日足らずで、"もう書きたくない" と書いて終わっていた。その日記を読んだ後は少しばかり身体が固まり涙が出たが、父にとって自分が認知症になったことはひょんなことであったんだと思うと笑ってしまった。そして僕がバンドを出来なくなってしまっていることもまた、ひょんなことからなんだなと思えた。