gigadylan

mothercoatという拭い切れないようなバンドの雑巾を担当してます。

記事一覧(25)

存在が僕らの生活に挟まっているようで。

時々、我が家に顔を出す猫がいた。トキロックは当初反対していたが、僕はせっかく立ち寄って来てくれてるのだからと、玄関にほんの少しのキャットフードを置く事にした。来た時に名前がないとあれだなとオスかメスかも確認もせず、その猫の存在が僕らの生活に挟まっているようで心地良かったことから"栞"と名付けた。栞の姿を見れることはあまり多くないが、餌がなくなっていることで今日も来たんだなと来訪を確認出来た。そしてそれが小さな日々の楽しみとなった。仕事帰りに「今日、もう栞来た?」とトキロックにLINEするくらいに。来てない時は、夜中の2時くらいまで栞が見える部屋で待ってしまうくらいに。栞は警戒心が強く、こっちが見つめたり、手招きするとプイッと背を向けてどこかに行ってしまう。出来る事ならいつの日か、少しばかり触れてみたいと思ってしまっている。その僕の強欲を嗅ぎ取ったのか、ここのところ僕の居ない時にしか顔を出さなくなったような気がする。その事を考えると異様に寂しい気持ちになったりしている。久々のこの気持ちはなんだ? もしや栞に恋心を抱いてしまっているのか?猫に恋している40歳の男を人々はどんな風に思うだろうか。もしも栞の同意のもと触れ合うことが出来たら、これは不倫という事になるのだろうか?トキロックも栞のことを懇意にしているが、恋してるという枠組みになった場合、栞に向かって「この泥棒猫め!!」と怒鳴り帰したりするのだろうか? そんなこと考えながら、今も栞を待っている。

雪桜に公

ジュン(2009年から2017年までmothercoatに在籍したドラマー)から渋沢栄一公(以下"公"という)が一万円紙幣になるというニュースを聞きつけバンドのLINEで祝辞を送ってきた。絡みづらいシニカルジョークを交え返してみたところ、恐らく面倒に思えたのだろう途絶えた。ここは素直にThank you, I'm proud of it.と返すべきだったのだろう。仕事帰りの電車で氷結を飲んでいたので仕方ない。それはともかく以前近所の渋沢栄一記念館にある何かで、その昔千円札の候補になったことがあったが髭がなかったせいでオーラに欠け伊東博文に敗れた。というような記事を見た記憶があったので時を経てやはりそうなるべく人はなるもんなんだなと、芸術に置いても同じような現象は多々起こっており、作品や功績が時を経て再認識されるのは人の一生を永遠と結びつける架け橋のようで素敵なことだなと思ってみたもののそう言いたいだけかもしれない。たまたま条件に合い移り住んだこの家の近くに公の生家があり記念館があった。いつぞや現代史で登場したであろう公のことは全く覚えていなかったが、移り住んだことで知り、少しばかり興味を抱き、うっすらと親近感を覚えた。ただそれだけのこと。ただそれだけのことであってもなんだかとても嬉しく、ここの住んでいることを誇りに思えたりする自分の脳の構造に驚きながらも感謝している。そんな小さな盛り上がりの中、今朝、目覚めると桜に雪が積もるという祝いなのか嫌がらせなのか判別に困る景色が広がっていた。珍しいことに触れることは嫌いではない性格上、これは雪桜と公の像を一緒に写真に収めておくべきだと青淵公園に、そして公の像のところまで行くと驚くべき光景が。普段ほとんど人などいない公の周りに人だかりができていた。そのことの方が珍しく思えその光景も含め写真に収めたかったが、昨今のプライバシー事情を加味すると気温に比例してモチベーションも下がり公に背中を向け雪桜をせっかくだからという記念に何枚か収めた。

さかれ、いざなわれ、こたえた。

天候と週末がハイタッチ。平成最後の桜がガッツボーズ。桜の花びらと共に乱舞する人、人、人。これほどまでにチャラダサい表現を出来てしまうほど素晴らしいひと時に今日は触れることが出来た。朝食を食べ終えた時点で昼に無性にケバブが食べたかった。催されていたさくら祭りの会場にいくつか出店があるとトキロックから聞いていた。が、ケバブ屋はなかった。が、桜は咲いていた。深谷駅前の会場周辺では献血へのご協力の呼び掛けと明日に控えた埼玉県議会選挙演説の為訪れた共産党の立候補者の演説と高崎線遅延のアナウンスが入り乱れる中、子供達がダンボールで作った力士を大きなベニヤ板の土俵に縦横無尽に並べ、戦略もなければ勝利するコツも誰一人見出せないままひたむきにベニヤを叩き続けるというカオス相撲に花を咲かせていた。僕らはそれを横目にサクラ色したロゼの甘酒(色以外どうロゼなのかはわからなかった)を飲みながら会場である神社でお参りした後、川沿いを桜に沿って散歩することにした。もちろん木々のコンディションの違いによる咲き乱れ方の違いはあれど僕らを満足させることは今年の桜たちにとっては花びらの上で軽く躍らせるくらい容易すいことであった。

混沌の中に平穏あり。

秩序を正すと秩序を乱すはある意味では同義となる。正している(保っている)様で乱している。乱している様で正している。個人がそれを判断する基準をどこに定めるか、宇宙?地球?国?地域?職場?学校?SNS?家族?恋人?友人?で無限に変動し続ける基準を前にしては常に入り乱れていることが正しい、つまり混沌に耐えうる状態を保ち続けることこそが秩序を保たれている状態であると思ってしまうのは僕だけだろうか?"混沌の中に平穏を感じること"が出来る能力?感受性?体質?さえ身に着けることが出来れば、この世のほとんどのことは問題ではなくなる。たとえその場凌ぎで合ったとしてもその場を凌げなくてはその次の場がないのだから、その場を凌ぐっていうことは決して悪いことではないし恐らく人類は未来を想像しながらもその場を凌ぎ続けてきたからこそ今があり、明日やいつかもある気がして今を過ごせている訳である。"混沌の中に平穏を感じること"と文字で表すと簡単な様なことに思えるが、手持ちの能力には限りがあり、多くの人が挫け、助けを必要とし宗教やスピリチュアル、心療内科やセラピーやヨガ、アルコールや煙草やドラッグ、はたまた筋トレ、マラソン 等々、、、 善悪、合法非合法に関わらず様々な補助を駆使してその場を凌がざる得なかったということをたとえ代償があった(ある)にせよ肯定出来る感性を持つべきであるし、それを持たずして秩序は保たれない。

yeS todAY

三寒四温を肌身離せず感じながら、くしゃみをし鼻水を垂らしながら朝食を食べる。

ここのところ、僕が朝食を作りトキロックを起こす、または作ってる途中に起きて来て準備に参加するということが多いのだが、たまにトキロックが調子が良さそうな時は起こされる側になりたくなり、「”ご飯もう出来てるよ、いつまで寝てるの”とほんのり苛立を含めたトーンで起こして欲しい」と懇願する朝もある。トキロックの調子は大体朝一のトイレに行って戻ってきた時の感じで大まかに感じる取ることが出来る。そして今日はその日であった。

晴れの日は太陽の動きに合わせ窓際に沿って東から南へ暖を確保しながら本を読んだりする。これと言って絶対的な予定がない日は大体そんな午前を過ごす。L92乳酸菌を昨年秋から毎朝飲み続けてきたお陰か、そもそも花粉が少ないのか慢性的な花粉症の症状が例年に比べ今年は幾分ましな気がしているが、なかなか自分が掲げたパフォーマンスを出せない時は淀みなく花粉のせいにしている。

SNSに触れたり、ブログを書いたり人に会ったりすることがまだリハビリのように感じているが、 徐々にそれが日常になっていくような気配に春を感じる。それでも暖気に誘われ焦ったように咲いて(咲かされて)しまった桜が昨日、今日で散っていく様に昨年、一昨年の自分を重ね春を待てない愚かさをその散り桜に解きたい気分である。桜にすれば"そんなの知ったことかよ"であるが、、、。